AIとの上⼿な付き合い⽅―WWJD(What Would Jesus Do?)という問いかけとともに

WWJDWhat Would Jesus Do?

  ―イエス様ならどうされるだろうか

この問いかけがリストバンドと共に世界中へ広まったのは1990年代だそうですが、私にとっては今でも新鮮な言葉です。
そして今、AIという新しい技術と向き合う時に、私は改めてこの問いかけに⽴ち返りたいと思わされました。
どんな時代でも、たとえ便利な道具を前にした時でも、クリスチャンである私が⼿に持っている羅針盤は変わらないはずなのですから。

便利さの陰で問われていること

ちなみに私はAIの超初⼼者です。スマホ越しのチャッピー(ChatGPT)に日常の疑問を投げかける程度で、⾃分よりも知識豊富なオウムと会話しているような感覚でしか使えていません。
それでもこの12年でAIが急速に⾝近になったことは肌で感じます。調べもの、⽂章作成、アイデアの整理などなど。
コスパ、タイパと騒がれる今、AIは確かに時代のニーズにぴったりの存在です。

けれども便利になればなるほど、私の⼼には何かが引っかかります。こんな時イエス様ならどうされるかしら?と。

先日こんなことがありました。「⽶粉とココアパウダーが余っているから、うまく消費できるレシピを教えて」とチャッピーに声をかけ、提案されたレシピを当たり前のように信じて材料を混ぜ始めたのです。ところが⽣地が全然固まりません。おかしいと思ってもう一度確認すると、今度はまったく違う材料や分量を提案してくるではないですか。「いやいや、さっきと⾔ってること違うやん!」と思わず⼼の中でツッコミました。

こんな失敗は笑い話で済みますが、改めて感じたのは、AIは時々「⾃信満々に間違える」ということ。しかもあまりに堂々としているので真偽が判りづらいのです。
これは私にとっていい警告になりました。どんなに堂々とした声でも、それが必ずしも真実とは限らないのです。

何を⼟台に⽴つのか

現実に、AIの情報を⼗分に確認せずに使った結果、⼤きなトラブルや事件に発展したというニュースも珍しくありません。こうした話題を⽿にする度、私は「神様、私はこの新しいものとどう向き合えばよいのでしょうか?」と問いかけずにはいられないのです。

新しいものを頭ごなしに否定したいわけではありません。
かつて教会の中には、つい数⼗年前まで、ギターやドラムを⽤いた賛美を「悪魔の⾳楽」として拒絶した時代がありました。しかし今では、多くの教会で当たり前のように主を讃える楽器の1つとなっています。
「新しい」という理由だけで退けるのは、神様が私達に委ねて下さった知恵を、かえって閉ざしてしまうことになるかもしれません。

見るべきポイントは手段そのものではなく、私達が何を⼟台に⽴っているか、ということなのだと思います。

「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」(マタイ72425節 参照)

AIという⾬⾵が激しく吹きつける時代だからこそ、私はその⼟台をしっかりと確かめて歩みたいのです。

イエス様ならどうされる?

私にとって揺るがない⼟台、絶対的な基準ーそれは聖書です。

「あなたのみことばは、私の⾜のともしび、私の道の光です」(詩篇119105節)

どんなに賢いAIの声も私の道を照らす光にはなり得ません。光はただ⼀つ、主のみことばだけです。
だから私は⽴ち⽌まって心に問いかけます。イエス様ならどうされるだろう?聖書には何と書かれているだろう?

考えてみれば、イエス様ご⾃⾝も荒野で誘惑を受けられた時、堂々と語りかけてくる声に対して、その都度「こう書いてある」とみことばをもって応えられました(マタイ4章参照)。相⼿の⾔葉がどれほどもっともらしく聞こえても、主はまず神のことばに照らされたのです。

私がAIの答えに向き合う時の姿勢も、ここに学びたいと思います。AIが何と⾔おうと、まず聖書に照らす。それが私のファクトチェックです。
AIは得意な部分を⼿伝ってくれます。私が⼀⽇かかる作業でも、数分で形にしてくれることもあるでしょう。その恵みは素直に受け取ればよいのだと思います。けれども最終的な判断と、私の価値観の確認は、決してAIには明け渡しません。

「⼼を尽くして主に拠り頼め。⾃分の悟りに頼るな。あなたの⾏く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる」(箴⾔356節)

⾃分の頭にも、AIの答えにももたれかからない。ただ主に拠り頼む。そこさえブレなければ、必要以上に振り回されることにはならないのかなと思います。

これからの時代に、主と共に

これからAIはさらに進化し、私たちの⽇常に深く⼊り込んでくるでしょう。だからこそ必要なのは、恐れて拒絶することでも、無条件に信じ込むことでもありません。便利な部分は感謝して活⽤しながらも、常に主の御前で考え、みことばに照らして真実を確かめる姿勢を持ち続けることです。

イエス様だったらこの新しい技術をどう⽤いられるだろう?きっと⼈を愛し、⼈に仕え、神の栄光をあらわすために、知恵をもって⽤いられるに違いないと想像しています。私もそのようになりたい…WWJDというキーワードを胸に、主に拠り頼みながら、今よりも少しずつ、けれども確かな⼟台の上で、AIと付き合っていきたいと願っています。

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