信仰につまづいた文豪たち
峰町キリスト教会のUCLA聖書講座で「日本文学とキリスト教」をテーマにした講義を受けています。
明治~昭和の文豪たちの多くが聖書を熱心に学びながら、その知性ゆえに悩み模索し、”目に見えないものを確信する”信仰へと一歩踏み出せなかった事実。
回を追うごとに続くその歴史に、私はやるせなさと物悲しさを感じ、段々と気が滅入っていきました。
そんな私達受講生の気持ちを汲んでか、講座の中盤で先生が「これまでとは違って…」と紹介したのが、クリスチャン詩人・八木重吉(1898-1927)でした。
29歳という若さで結核により世を去り、その短い生涯で2000篇を超える詩を残した人物。
シンプルな言葉と短い文字数の中に、飾らない純粋な信仰が静かに熱く息づいています。
ある詩が目から離れなくなった
教材のプリントを読み進める中で、彼の2つの詩が私の目に留まりました。
「ここに私の詩があります これが私の贖(いけにえ)である」
「わが詩 いよいよ拙くあれ キリストの栄 日毎に大きくあれ」
なんて真っ直ぐな信仰だろう。賢さや巧みさを求めずつたなさを認め、ただ自らのありのままを主に差し出す…その姿勢に胸を打たれました。
私は深く物事を考えるタイプではありません。言われたことをそのまま受け取る、単純明快な人間です。
それを自分の欠点と感じることもありますが、知性で神を理解しようとして挫折していった文豪たちの歴史を知った時、ふと思ったのです。単純な頭しか持ち合わせていなくて良かった、と。
「幼子のようになりなさい」(マタイ18:3)
自らの知性知識に頼ることなく、へりくだって素直に進み出る姿勢こそが、信仰の入り口なのかもしれません。
つたなさは喜ばれる捧げもの
八木重吉は短い生涯の中で、あふれる思いを詩として主に捧げ続けました。巧みな言葉ではなく、つたない言葉で。
それでも彼の詩は今も私達の心を動かし、詩画家の星野富弘氏をはじめ多くの人に影響を与えています。賢くなくていい。つたなくていい。そのままを差し出す者を主は用いてくださる。
それは私自身がいつも体験している事実でもあります。私も小さい者なりに、つたない思いを捧げ続けていきたいと思います。
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