迷子のクマ

宇都宮に現れたクマ

私は現在、栃木県宇都宮市に住んでいます。宇都宮は中堅都市といった規模で大都会ではありませんが、車さえあれば不自由なく暮らせる便利な街です。自然も身近にありながら生活環境も整っていて、なかなか住みやすい場所だと思っています。

そんな宇都宮で、クマの出没が大きなニュースになりました。しかも山間部ではなく、住宅街や市の中心部にまで目撃情報が相次いだのです。確かに、それなりの市街地に野生のクマが現れるというのは異常です。安全確保のために行政や警察が厳戒態勢を取るのも当然でしょう。地元では細かく目撃場所の住所共有がなされ、学校は休校に、そして私の集う教会もイベント開催有無を緊急で話し合う事態となりました。

実際に被害に遭われたり、中には命を落とされた方もいらっしゃる事を思えば、決して軽々しくは口にするものではありません。それでも正直に打ち明けると、日本各地でのクマ騒動のニュース映像を目にする度に、そのクマの姿に胸を痛めてしまう自分がいます。人の命と安全を最優先に考えるのは当然の事で、その思いは変わりません。ただ同時に複雑な感情が湧いてくるのも事実なのです。

人里に迷い込んだクマが大勢の人間に囲まれ、追い立てられ、どこへ逃げればいいのか分からず右往左往している姿。特に独り立ちして間もないであろう子グマの姿には胸が痛みます。私達人間から見れば危険な動物でも、そのクマ自身は何らかのきっかけで見知らぬ場所までやってきてしまい、恐怖と混乱の中にいるだけなのに…と思ってしまうのです。もちろん、人間の生活圏でクマが共存することは現実的ではありません。捕獲が必要なのも当然です。それでも、あの子グマのさまよう姿を見ていると、ふと「迷子」だった自分の記憶がよみがえってくるのです。

私も「迷子」だった時がある

誰でも一度や二度は迷子になった経験があるのではないでしょうか。私にもいくつか思い当たる出来事がありますが、その中でも特に記憶に残っているのは、なんとパトカーまで出動させてしまった4歳の時の迷子事件です。

当時、私は母と生まれたばかりの弟と一緒に近所の公園へ遊びに行っていました。夕方になり帰宅する時間になった時、帰り支度をしている母を待たずに、私は一人で先に家へ向かってさっさと走り去ってしまったのだそうです。

私としては「一足先に帰った」だけのつもりでした。しかし母からすれば、目を離した隙に子どもが突然いなくなったのです。しかも帰り道には学生たちが大勢集まっている場所もあり、さまざまな不安が頭をよぎったのでしょう。母はついに110番通報をし、パトカーや警察官が私を探し回る事態になりました。

一方の私はというと、のんきに一人で自宅に向かっていただけなのです。自分が迷子だという自覚もありませんでした。ところが突然、大勢の大人達に囲まれたのです。その瞬間の恐怖は今でもはっきり覚えています。悪い事をしたつもりはないのに、なぜこんなことになっているのか分からない。ただただ怖くてパニックになりました。

そんな思い出があるからでしょうか。住宅街に現れた子グマの姿を見ると、私はどうしても自分の記憶を重ねてしまうのです。クマに悪気はありません。ただ気が付いたら知らない場所に出てしまい、周囲は大騒ぎになっている。逃げようとしても逃げ道は分からず、どこへ行っても人がいる。しかも捕まった後に何が待っているのかも分からない。そう考えると、あの右往左往と走り回る姿に情が移って、見ていて辛い気持ちになってしまうのです。

人生の道しるべ

大人になった今、私は物理的な意味で迷子になる事はまずありません。しかし人生の歩みの中では、まるで霧の中に立っているような瞬間が訪れる時があります。何を選べばいいのか、どこへ向かえばいいのか、すぐ目の前の事でも見えなくなるような時です。

そんな時、私はいつもみことばに立ち返ります。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネの福音書 14:6)

私が信じるイエス様は「道を教えてくださる方」ではなく「道そのものである方」。この真理が私の人生の土台です。先が見えない時も、選択に迷う時も、イエス様という道に従って歩く限り、私は完全に迷い子になる事はありません。立ち止まる事があっても見捨てられる事はない。悩む時があっても道は与えられている。それがキリストにある者の確かな希望だと、私は確信しています。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイの福音書 7:7)

だからこそ、迷子のクマの姿を見ながら私は祈っているのです。
「神様、どうかあのクマにも安全な道を示し、導いてあげてください。」
小さな祈りかもしれません。しかし、すべての造られたものを御手の中に置いておられる神様に、小さすぎる祈りなどないと思っています。

道を知らずにさまよう者のために祈れる、それもまた、「道」を知っている者に与えられている恵みのひとつなのかもしれません。

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